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今の自分を過去のトラウマや他者のせいにしてしまう心理
「親に虐待されてきたから、人に本当の気持ちが言えません」
と言う人に対して、過去に起こった悲しみを理解するというのは大切だと思う。
だけれど「そうだね仕方がないよ」
と声をかけるのは、愛ではありません。
なぜなら、ただその人がそうであることに拍車をかけているだけになってしまうからです。
ただの受容止まりになってしまって、本来の目的である「自分の気持ちを言えるようになる」ことへの解決にはなりません。
過去の出来事のせいで、本当に自分の気持ちを言えなくなったのでしょうか?
なぜ多くの人が、今の自分の言動を過去の出来事や人のせいにしてしまうのかをご存知ですか?
・出来事と思っていることは対人関係であることを理解できていない。
・何かできないことの責任を取りたくないから人のせいにしてしまいう。
・人のせいにしておけば、過去は変えられないのでいつまでも今の自分でいることを選べる。
以上が今の自分の言動を人のせいにしてしまう理由です。
具体的に、1つずつ説明していきますね。
【出来事と思っていることは対人関係であることを理解できていない】
過去に傷つけられたという出来事において、必ずそ他者が存在していることに気がつくと思います。
自分一人で転んでしまったことを毎日繰り返していたとしても、道路のせいだと歩くことをやめる人はいないですよね。
どう歩けば転ばないかを学び、習得する。
それが一方で、他者に殴られて傷ついたとなればたちまち話は変わっていく。
誰かが自分を傷つけたから、何かができなくなったと言い訳して前を向かなくても良い自分を作ってしまうのです。
そして人と関わらず、傷つかないで生きていく選択肢を選んでいくようになります。
【何かできないことの責任を取りたくないから人のせいにしてしまう】
過去に人に傷つけられたとしても、今「新しく誰かと関わらない」と決めているのは誰でもなく自分自身ですよね。
「過去に自分を傷つけた人」のせいにすれば今の自分の「新しく誰かと関わらない」という決定は、人のせいにできるので、人に会えない弱い自分を認めなくて済むことになります。
傷ついた心は、すぐに修復はできません。
時間をかけて、焦らず修復することはとても大切なことです。
その辛さが時間と共に薄れてきて、自分を客観視できるようになってきたら「これからの自分のため」に視点を変えなければ、ずっと人に会えないままなのです。
【人のせいにしておけば、過去は変えられないのでいつまでも今の自分でいることを選べる】
「内気な性格が直らない」
「人に本音を話せない」
「パートナーを作れない」
どれも「できない」のではありません。
「しない」と決めているのは自分。
厳しい言い方になりましたが、誰かのせいにすれば、内気だったり、本音を言えなかったり、パートナーを作れない責任は他者にある事になるので、責任を取らなくてもいいということになって、逃げる口実になってしまう。
そして、そうしないことの方が今の自分にとって都合がいいと、心の何処かで判断しているから変わろうとしない。
過去の人物のせいで形成された自分にしておけば、過去は誰にも変えられないので形成された自分を変えなくても済む理由ができる。
それは本当の意味で幸せなのでしょうか?
人は自分の意思で、自分と未来を変えられる
朱に交われば赤くなる。
という言葉がありますが、この本当の意味とは何でしょうか?
コスタリカの刑務所にいる受刑者たちは、劣悪な国に生まれたばかりに、学ぶ機会も知識も与えられず生き抜くために犯罪を犯し、収容されています。
ドラッグ、殺人、強盗。
しかし、彼らの中には理解している者もいるのです。
・自分たちのしていることが間違っていること。
・自分が望んでそうしているわけではないこと。
同じ刑務所内なのに、2つの対照的な施設に分かれています。
1つの塔ではドラッグや喧嘩が好き放題で寝具や食事も粗悪。なのに対し
もう1つの塔では、施設の整備も整っていて、ドラッグも喧嘩もなし。
そして何より、後者の施設には「学ぶ設備」が整っていること。
日本では考えられませんよね。
学ぶことをしなければ、また受刑者たちは出所後同じ過ちを繰り返し、また収容されることとなります。
生きていく術が、変化していないからです。
受刑者たちがいい設備に行くためには、厳しい審査があるんだけど、努力すれば入れないことは決してありません。
それなのに、劣悪な施設に残る者の方が遥かに多い。
この違いはなぜだと思いますか?
コスタリカではドラッグが大きな収入となるようです。
そのため目先の欲に流されて劣悪な施設の方にあえて残り、密輸して売りさばいていくことを選んでいるのです。
一方、学ぶことができる施設へ行く人はどうでしょうか?
今まで知らなかった知識を学び「刑期を終えた後真っ当な職につき、人生をやり直す」と決め、厳しい審査を通過しそこにいることを選んでいる。
そんなに厳しい国であっても、人は自分の意思で選択することができるのです。
朱に交われば赤くなるという本当の意味とは、環境や人のせいでそうなったのではなく
「新しい選択肢をそこで知り、そうすることを選んだ」
私は過去にDVを経験したことがあるのですが
「DVされたから誰にも心を開かなくなる」のか
「自己開示をして戦うことを選び強く生きていく」のか。
私は後者を選びました。
その代わり、また男性に暴力を振るわれるかもしれないという責任と、一方で分かり合えるパートーナーを得られる権利を獲得したのです。
その勇気を出すのには、私自身時間も労力もかかりました。
不可能ではありません。
そう勇気を出して、自分の視点を変え、過去に自分を傷つけた人たちからの呪縛から逃れた今は遥かにいい人生か。
少しずつでいいから、いま過去の呪縛に苦しんでいるのであれば視点を変えてみることを試してほしいと願います。
ここからは、勇気づけることの大切さを考えてみましょう。
勇気付けるということ
人は誰しも乗り越えたくても一人では乗り越えられない壁があります。
その壁を大切な人と乗り越える方法を考えました。
過去に娘が自己注射の練習をしていた時のことです。
「怖くてできない・・・」
そう言って泣く娘に私はこう言ったのです。
「怖くないよ!あなたならできる」
するとどうでしょう
「怖いもん!!」
私はその時、なんてことをしてしまったのかと後悔し、本当に勇気付けるということがどういうことなのかを学びました。
私がかけた「怖くないよ」
という言葉は「怖いと思っていることはいけないこと」「自分は弱い人間なのだ」と娘に認識させ、さらには怖いという気持ちに注目させることで、「怖い」という感情に拍車をかけたのです。
勇気づけるどころか、壊してどうする私。
こんなこともありました。
人間生きていれば、辛かった経験もしてきたはず。
私と誠実に向き合ってくれた人がこう告げたのです。
「僕は過去に暴力的な言葉をかけられたり、縛られすぎたせいで気持ちをうまく言えなくなってしまったんだ」
いつもは強い男性なのに、その日の彼は違いました。
そんなに心を開いてくれたのに、私がかけた言葉は
「大丈夫、言えるよ。それは自分次第なのだから」
私は彼に「言えない自分は弱い人間なんだ」と認識させ「弱い自分と向き合うなら言わない方がやはりいいのではないか」という選択肢すら提案してしまった。
バカなのか私。
そしてこういった例もよく見ます。
「坂道が怖くておりられない」という子どもに
「わかった抱っこね」と、抱っこして降りる親。
できないという子どもに、率先して親が手出しをしてやってしまう。
何がいけなかったのか。
これは優しい母親だと思いますか?
抱っこしてしまうことで、怖いといいながらも乗り越えようとしている自立心を奪っているのです。
もう1つは「できないことは怖いと言えば誰かがやってくれる、だから自分でやらなくていい」
やる気をなくすことも教えてしまっている。
もちろん悪気はありません。しかし、結果としてよくならないのです。
ではどうすれば良いのでしょうか?
相手の求めていることを認識することと、受容する大切さ
私が二人にかけてしまった言葉で、共通の失敗している点は「共感せずに決め付けた」こと。
できないことへの「不安」を抱えている気持ちのところに「できないと嫌われる」もしくは「自分は弱い人間だからダメなんだと思われるかもしれない」
という2つの不安すら与えてしまっていた事にあります。
何かをできないと思っている根底の心理には、不安が必ずあるから、その不安を受容すること。
言い換えれば、安心することで踏み出す勇気につながるということ。
安心感こそが、本当の勇気へつながるのです。
「注射は怖いよね。それにいたいものね。だけど頑張ってみようか。どうしたらできるかな?」
「人に気持ちを言えないってしんどいよね。少しでも言えるように小さなことから話し合っていこうか?」
大人だって注射は痛くて怖いし、人に素直に言葉をかけて傷ついてきたら本心を打ち明けるのは怖いもの。
「でも大丈夫。そばにいるし、できるためにはどうしたらいいか一緒に考えよう」
そう伝えなければならない。
この声かけに入っているものは何だと思いますか?
・受容という共感
具体的にどの部分かというと
「注射は怖いよね。それに痛いものね」
「人に気持ちを言えないってしんどいよね」
の部分になるのですが、もう1つ大切な要素があります。
【提案という形で、どうしたらできるかどうかを質問をすることでこちらに気持ちを投影させ自分自身で考えてもらう。そして自己決定してもらう】
ことなのですが、どの部分かというと
「だけど頑張ってみようか。どうしたらできるかな?」
「少しでも言えるように小さなことから話し合っていこうか?」
受容するだけでは、本人のためにならない時もあります。
受容するだけでは、今後の行動に変化をつけられないからなのです。
変化によってのみ、困難を乗り越えられます。
同じことを繰り返しても、同じ失敗を繰り返すだけ。
大切なのは自分の気持ちに本人が向き合い、目の前の困難を乗り超えることにあるのですから
「どうしたらいいのか」を自分で考えてもらう必要があります。
考えるということは、自分で決めるということにつながります。
自己決定し新たな行動に移すこと自体が重要であり、成功や失敗は関係ありません。
なぜかというと、今まで変えてこなかったものを変えるということはそれだけでも大きな進歩であり、その積み重ねがいつかの成功につながるからです。
これは、他者への課題の介入とは違います。
「注射をする」のも「本心を口にする」のも本人の意思であるということ。
そして自分自身が決定できた事実そのものが次の勇気につながるから。
介入とは、本人ではなく他者がしてしまうことに当たります。
先ほどの、坂道が怖いという子どもを抱っこしてしまったお母さんは、他者への介入に値するのです。
そのお母さんも、愛しているから抱っこしてあげたのだけど・・。
そして一度でも乗り越えられたその人に対し、かける言葉は1つ。
「ありがとう」
大切な人がしんどい思いをして、一度でも壁を乗り越えてくれたこと。
また一歩幸せに近づいてくれたこと。
それはなによりのプレゼントであり、感謝すべき行為です。
気をつけなければいけないことは、できたことを当たり前と思わないこと。
なぜかというと、当たり前だと思ってしまえば
できなかった時に、「なぜできないの?」という気持ちが出てくるからです。
その言葉は相手の自立心を奪います。
夫婦でもそうですが、家事をすることや、仕事へ行き稼いでくれることが当たり前と思ってしまっては、感謝も薄れ、ありがとうの気持ちもなくし、相手との関係は破綻してしまう。
人は、他者との関係の中でしか幸せになることはできません。
険しく傷つくこともありますが、得られる幸福は何にも代え難いもの。
何より忘れてはいけないのは、愛は与えてもらうものではなく与えるということを忘れてはいけません。