裏切られても笑顔でいられる方法〜可能性を信じて〜

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目次

期待は人間関係を破壊する

期待するとは、どういうことでしょうか。

私の見解では、期待というのは

「相手の能力に関係なく、自分の主観を押し付けた相手へのハードル」と定義します。

よく「期待を裏切られた」そんな言葉を耳にしますが

期待された方にしてみたら「いい迷惑」と思われることも少なくなかったりするのですよね。

勝手に期待されて、それに応えなければ裏切られたと罵られるのですから、そうなっても仕方ありません。

あなたがおしゃれでスニーカーを履いていたとします。
ある日のデートでスポーツセンターへ行くことになりました。
そこでバスケをしましたが、特にあなたはスポーツが得意ではないのでうまくゴールに入れることが出来ません。
そこで彼が、言いました。
「スニーカーいつも履いてるから上手だと思ってたのに、残念だな」
!?
あなたは一言もスポーツ万能などとはいってないのに、勝手に期待されて勝手に落胆される。

これが期待。

こんなことをお互いにしていたら、関係は悪くなっていってしまいますね。

可能性を信じるということ

一方「可能性を信じる」とはどういったことでしょうか。

私の見解では

「相手の能力を決めつけるのではなく、裏切られる可能性があっても信じる」

と定義します。

能力というのは人それぞれ。

「あなたが当たり前にできていること」でも

「ある人にとっては困難」であったり

「あなたが全くできないこと」も

「ある人にとっては当たり前にできること」であったりします。

しかし今後、困難だったことができるようになる可能性は0ではありません。

その可能性を、自分が裏切られるかもしれない覚悟で信じることを

「可能性を信じること」と呼ぶ。

「どうせできないだろう」と下に見るのとは違います。

可能性を信じるということは、自分が傷つく可能性も大いにあります。

その代償は怖いですよね。

これを我が子に置き換えたらどうでしょうか。

自分が子どもの可能性を信じ、裏切られて傷ついても何度も可能性を信じる。

これができたら子どもは立派に自立できる。としたら。

大切なことは「自分の期待に答えてもらって満足する」ことではなくて「相手が立派に自立して成長すること」が大切だと理解できていたら

「裏切られた」と悲しみ傷つくことより「自立できるまで味方がいるということを知っていてほしい」という優しい気持ちになれるのではないでしょうか。

諦めとは違い、相手の可能性の開花まで見守るという意味ではまた違った「忍耐」が必要かもしれないけれど、相手への愛情が深いほど、可能性を信じる力と継続力も増すものだと思います。

自立できていない方だって、そうなりたくてなっているのではないと私は思っています。

皆、自立したくても方法がわからなかったり、心が疲れてしまって勇気が出なかったり。

人は皆、劣等感を抱えて生きている。私も含めて。

その劣等感を乗り越え、成長するためには

「心から信頼している人からの勇気づけ」が必要です。

可能性を信じることがお互いにできれば、成長し続け明るい人間関係が築けます。

可能性を信じるということは「出来ないかもしれない」可能性もあるわけですから、可能性を信じた方も傷つくことは少ないように感じます。

ここからは、裏切られても自分自身の心に深い傷を負わない方法を考えましょう。

自己肯定と自己受容の違い

自己肯定とは何でしょうか?

裏切られても深い傷を負わないためには自己肯定が必要です。

「自己否定」の反対を「自己肯定」と呼ぶのですが、自己肯定には自己受容のプロセスがなければ間違った自己肯定につながってしまいます。

間違った自己肯定とは

間違った自己肯定
  • 人に迷惑をかけているにもかかわらず、そこに目を向けないで自分は必要とされ価値のある人間だと捉え偉そうな態度をとる。
  • 特に理由のない自信。
  • 困難に前向きに立ち向かい乗り越えられる強さを持っているが挫折した時には、自分の力不足ではなく「違う何か」のせいにして逃げる。
  • 「不可能はない」「必ず結果は出る」といった暗示的な考え。

一方で「自己肯定」と道義と間違えられやすい「自己受容」とは

自己受容
  •  不完全な自分を受け入れる。
  •  「できない自分」を理解した上で「どうしたらできる自分になれるか」を考える。

自己受容という「不完全な自分」を認めることができない状態で自己肯定感を高めると「根拠のない自信」しかない状態になります。

困難を乗り越えなれなかった時に「完全なはずの自分」を否定することができず「他のせいにして逃げる」という結果になってしまうのです。

根拠のない自己肯定感はとどまることを知らないので「高くなりすぎる」ということにもつながります。

高くなりすぎると、どういったことが起こるのかというと

  •  「すごい」「素晴らしい」といってくれる人だけと付き合おうとする。
  •  根拠のない自信であり、高ければいいと思っているので他者と自分を比較し自分が優れていることを確認し高めようとする。(場合によっては相手を否定し攻撃する)
  •  自分に対して少しでも否定的なことを言う人に耳を貸さず攻撃したり離れようとする。
  •  失敗は他者のせいなので、自分のミスを見直さずなんども繰り返す。
  •  最終的に孤独になる。

と言うことが考えられます。

理不尽に自分を否定してくるような人と一緒にいる必要はないですが、自分の悪いところを指摘してくれる人を避け、居心地のいい人ばかりと付き合っていると「裸の王様」になってしまいます。

大切な人の意見をちゃんと聞き入れたり、否定的な意見にきちんと向き合うには、先ほどお話しした「自己受容」と言う「不完全な自分を認める」作業が必要です。

不完全な自分を受け入れつつ、完全になるためにはどうしたらいいのかを考えるということが一番健全なライフスタイルではないでしょうか。

不完全な自分を受け入れた上での自己肯定感を持つ人は「不完全な自分」を知っているので、過度な自己肯定感にはなりません。

そのほか、自己肯定感が低いコンプレックスから高く見せている人もいます。

正しい自己肯定のプロセス
  1. 自己受容する(不完全な自分を受け入れる)
  2. その上で完全になるための方法を考え実行する。
  3. 失敗することで1に戻る。

・成功した場合は自己肯定の高まりにつながる。

これが私の見解での、正しい自己肯定感へのプロセスです。

では3番の失敗した時や、他の人と比べて落ち込んでしまった時の対処法を考えていきましょう。

劣等感とは

この世に劣等感を持っていない人などいないと思います。

では劣等感とは何ででょうか?

劣等感とは他者と比べて発生するものではありません。

例えば誰から見ても痩せているのに、本人が自分のことを太っていると思えば、それは劣等感になるのですね。

誰かと比べた結果ではなく、自分の理想と今の自分を比べた結果が「劣等感」

劣等感とは、持つ本人の主観でしかありません。

どんなに容姿端麗、成績優秀で社会的地位もあり素敵なパートナーがいるような、誰から見ても順風満帆な人にでも劣等感はあるってことになりますよね。

はたから見れば優秀な人も、劣等感もち、それを達成したとしても、また新たな高い目標の劣等感が生まれるので満たされることはありません。

私たち人間は、生まれてから大人になるまでに数々の大人に囲まれて生きていきますよね。

その際に、常に自分より大人の方がいろいろなことができるということを知り「自分はダメなんだ、無力なのだ」という劣等感を持つのです。

それは、大人になってからも自分に引き継がれていくもの。

では、劣等感は持ってはいけないものなのでしょうか?

劣等感は持ってはいけないのか

ここで多くの方が混同している事実について考えてみましょう。

生まれつき持っている障害。

足が不自由だとか、先天性の病。のことを劣等性と呼びます。

そしてその劣等性を自分はダメなんだと嘆き負のエネルギーにしてしまう気持ちを劣等コンプレックスと呼びます。

誰もが持っている劣等感はいけないことなのでしょうか?

私の見解はこう。

劣等感を持つことがいけないことなのではなく、重要なのは劣等感をどうコントロールするかということ。

劣等感とは主観であるということを話したけど、劣等感は自分で作った壁になりますよね。

ではその壁を壊して進む方法や乗り越えて進む方法を学び続けトライアンドエラーを繰り返すのか

こんな壁は登れもしないし、壊せもしないと決めつけ諦めてふてくされていきていくのか。

劣等感とは言い換えれば、自分自身を成長させる最大のチャンスでもあるのです。

劣等感を持つことが悪いことなのではなくて、劣等コンプレックスを持つことが問題です。

私は過去に45キロの体重から、80キロまで太りました。

ある日鏡に映る自分を見て、うわっ!やばっ!(16歳なのでこんな話し方だった)と叫び、次の日急いで足場とびの面接へ行きました。

面接は受かったものの、仕事はきついし男性ばかりでデブって言われるしで散々な時期もあったのですが、

何があっても痩せるまで絶対やめない!!見てろよ!

半年後、45キロまで戻しました。

あの時、自分自身から逃げてコンプレックスに変えていたり、嫉妬に走っていたら、今でも太ったままで暗い顔をしながら、痩せている人を批判し、自分より太っている人を見つけては攻撃していたかもしれません。

ここで終わるはずだった私の劣等感は終わることはなく、

第2章

2度と太りたくないから体型維持を欠かさない思春期だもんゴーゴーダイエット継続ツアー。が始まりました。

新たな劣等コンプレックスです。

あの頃、私なんかもう太ってるしひどい扱いだし、もういいや食べまくってやる。

と生きていたら、今のパートナーにも出会えなかったことでしょう。

劣等感の乗り越え方がわかったら、最後に自信を重ねて付けていく方法を考えましょう。

自信がつかない原因

「自信がない」「どうしたら自信がつくのかわからない」

誰もが1度は通る悩みだと思います。

今回は自信とは「おまけの積み重ね」という例え方で考えていこうと思います。

自信とは「自分」を「信じる」と書いて自信と私は考えます。

ということは、自分を信じられていないとついてこないってことになりますよね。

例えば、人に嘘をつきながら下心ありの優しさを振りまいたとしても

「下心」がある事実は自分自身には隠せない。

ここで付いてくるおまけは偽物のダイヤです

優しさ×偽物=偽物のダイヤ

その偽物のダイヤは偽ればいつわるほどに増えていき、自分自身を追い詰めることになります。

見返りのない優しさを人に与えた人というのは、本物のダイヤがおまけとしてついてくるのです。

優しさ×本物=本物のダイヤ

本物のダイヤがたくさん集まった人は、心が満たされ自信がつきます。

自分にも人にも嘘をついていないからです。

本当の自信とは、自分自身に嘘をついていてはいつまでも付きません。

不完全な自分から逃げるのではなく、不完全な自分を認めその上で自分にできることを探し誠実に生きる以外に自信は手に入らないのですね。

人を騙して富を得たり支持を得ても自信たっぷりの人はどうなの?

人を欺けても自分は欺けないと書きましたが、実は人を騙し続けると自分自身の気持ちも騙し真実が見えなくなるという心理のがあるのですが、その場合は自分自身も騙しているため死ぬまで幸せだと思うのかもしれません。

それは本当に幸せなことなのでしょうか?

私の見解では、自分自身を見失い不誠実なものに心を支配されて生きていくなんて生きていないも同然だと思います。

金銭面でも精神面でも一見、騙されたほうが辛く悲しい者とされるのが一般的ですが、真に孤独で満たされていないのは騙した側の人間です。

自分を偽っているため、常に周りの人を疑い本当の意味で笑顔になることはなく、お金や地位だけに依存して生きているのですから。

持っているダイヤは偽物なので、いつまでも心が満たされずに、常に植えた状態で欲望がとどまることを知りません。

「容姿が美しいから」「お金をたくさん持っているから」「社会的地位が高いから」これらは本当の自信に比べたら取るに足らないものです。

容姿はいつか老いていき、お金だけあってもいつか不要になり、社会的地位は老いと共に必要とされなくなる。

容姿が衰えたり、お金がなくなって一気に不安定になる人はそこに依存していたので自信をなくしたように思えるのです。

自信とは自分に誠実に生きることでしか手に入りません。

自分に誠実に生きる=人にも誠実になり貢献できる×本物のダイヤのおまけ=真の自信×人生経験=本当の幸せ

人への真の貢献は、自分で自分を唯一褒めることができる手段だと思います。

自分自身で心のダイヤを貯めていけば、周りの評価に左右されずに自身を持って生きていけるようになります。

そうじゃないと不公平すぎる世の中だと思いませんか?

なかなか人生はうまくできているなと思います。

このプロセスで、裏切られても自分への自信から「味分が悪かったのではなく、不誠実なあいてに原因があった」と心から思えるようになります。

信じていた人に裏切られたら辛いですよね。

でもその傷は、ちゃんと癒やされる時が来ます。

そのためにも自分を愛して自信をつけましょう。

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