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間違えたらとんでもない許す気持ち
今日のお悩みはこちらです!
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長い時間を過ごすと余計に関係性が麻痺して、わからなくなってしまうことは少なくないのです。
今回は、本当の許すということと、間違えた甘やかしや心を支配されるということについて考えていこうと思います。
相手の間違いをなんでも許してしまう時のクライアントさんは、こんなことを思っていることが多いと感じます。
「年令を重ねたら色々許せるようになる」
「男は浮気するものだから」
「あの人は辛いことが多かったから」
「いつか変わってくれる」
「過ちを許せないのは小さい人間」
本当に心から笑顔でそう言えるのなら、まはや神の領域です。(神様に会ったことないし心広いのか知らないけど)
でもよく考えてください。
それって一歩間違えたら「いい女(男)」じゃなくて「相手にとって都合のいい女(男)」ですよ。
許せる心の広さと、自分の価値を下げていることを同じにしちゃダメですよ?
「よく考えてください。
あなたを心から大切にしている他の誰かはどうでもいいのでしょうか?
浮気OK、モラハラOK。
自分はそれでもいいかもしれません。
でも見てる大切な人の気持ちは?お母さんはいますか?親友はいますか?
それに何でも許すのって、心が広いんじゃなくて、自分を大切にしてない証拠です。
自分を大切に出来ない人は、周りの人も大切に出来ません。
そして自分を大切に出来ないから、大切にもされません。
私が幼少期の反動で非行に走った時に、多くの人がかけてくれた言葉です」
裏切られると人は4通りの行動になります。
- 大切にされないことに慣れて大切にしてくれない人と平気で一緒に居られる(麻痺する)
- 大切にされなかったからこそ大切にしてくれる人しか選ばない(そんなの許さない)
- 人と関わることをしない(傷つくことから逃げる)
- 人を逆に傷つける人間になろうとする。(傷つくことから逃げる)
自分を大切にできるように、1つずつ考えていきましょう。
【大切にされないことに慣れて大切にしてくれない人と平気で一緒に居られる(麻痺する)】
わかりやすい例だと、DVを受けている女性が発言する言葉「でも彼には優しい所があるの」
大切にされなさすぎて、少しの優しさ(当たり前の言動)が身にしみる。
自己の評価が下がっている状態です。
DVの過去が多い女性は、言葉の暴力(モラハラ)に怒りを感じづらいのです。
大切にされていなことには変わらないのに。
そうしてどんどん自分自身が落ちていく。
こんな人がいました。
「浮気くらい小さいこと許せないと女じゃない」
1度目は許しという。
でも2度めからは媚びると言う。
どうして結婚してるのでしょう?それなら友達でいいですよね。夫婦って、お互いだけを愛し合う契約したはずです。
それに、そんな話している人は顔が悲しそうでした。
浮気しないならしないほうがいいですよね?
この世に生きるすべての人が、誰かの大切な子どもです。
もしかしたら、大切にされなかったかもしれない。
でも生きている間に、大切にしてくれる人がいたはずです。
たった一人の誰かにでも愛されている人を傷つけてもいいなんてルールや、大切にしなくてもいいなんてルールはどこにもない。
居場所がなかった。愛された経験が少ない。
だから、多少大切にされなくてもこの居場所にすがりたい。
その気持は理解できます。
私もそうだったので。
でも、それでは本当に幸せにはなれないのです。
どうしてでしょう?
私が何度も経験した事実と、相談される沢山の人の悲しい顔しか思い浮かばないからです。
「大切にされないことに慣れてしまう過去が、あなたの人生をどんなに邪魔しても、大切にしてくれないことに慣れるのではなく、大切にしてももらうことに慣れる心を強く持って欲しい」
それしか幸せになる方法がないからです。
【大切にされなかったからこそ大切にしてくれる人しか選ばない(そんなの許さない)】
今の私が、ここに当てはまります。
大切にされなかったからこそ、だれよりも自分を大切にする。自分の親友になる。
私と同じくらい私を大切にしてくれない人なんかいなくていいと思っています。
私も傷つけるし、私を大切に思ってくれている友人も傷つけるからです。
やっと、そう思えるようになりました。
娘は、私を無条件で愛してくれます。
その娘が大きくなって恋をする時に、私が何でも許して泣いたり逃げたり傷ついていたら
「自分を犠牲にして、大切にしてくれない人と一緒にいることが正解なんだ」
なんて、欠片も思ってほしくないからです。
愛とは適当に育めません。
誠心誠意、向き合って、1度の過ちを許したとしても2度目はありません。
1度悲しい顔を見ても学ばない人間は、学ぶ確率が低いからです。
自己を大切にすることとは、何でも許すことではありません。
感受性=思いやり。が正しく
感受性=IQではない。
だから、皆が平等に学び人を傷つけず愛することができるのです。
私は言い切ります。
そして自分を大切にしてくれる人しか選ばなくなった今、心から言えます。
沢山の人が私の前から去り、または私から去った。
悲しい日もあった。でも
大切にしてくれる人にちゃんと出会えるまで諦めずに生きてきて、出会えた今、一度きりの人生でこんなに幸せだと思ったことはない!!!
だから、大切にしてくれない人を絶対に許しちゃいけません。
【人と関わることをしない(傷つくことから逃げる)】
これも私は経験しました。
人は深く傷ついた時に、逃げることも傷を癒やすためには必要ですよね。
傷が癒えるまで逃げてもいい。
でも、気がつく日が来るでしょう。
「人と関わらないで生きていくなんて不可能だ。それにすごく寂しい」
人と関わるのって痛いしつらい。
でも良いこともちゃんとある。
正直に、傷つくことを恐れずに向き合った人の中から必ず心通える相手に出会える。
だから諦めないで欲しいと願います。
【人を逆に傷つける人間になろうとする(傷つくことから逃げる)】
傷付けられすぎて、逆に人を傷つける様になる人もいます。
触るもの皆傷つける、ギザギザナイフの子守唄的な。
古い。古すぎて理解されないかもしれないし年齢がバレる。
それはもういい。
傷つけると、心が痛くなりますよね。
時間差で。
だって、傷ついたからもう傷つきたくなくて人を傷つけるのだとしたら、ちゃんと人に傷付けられたら痛いってことを知っているからですよね?
痛みが理解できる人は、優しい。
優しい人が、やけになって人を傷つける時があっても、ちゃんと元に戻れる。
だって痛いの知ってるからなのです。
本当の許すという優しさとは
人と向き合って心開くのって勇気が必要ですし、傷つく可能性もあります。
自分を大切にするのって、相手を大切にしてないみたく思うかもしれません。
誰がこんなこと無責任に言ったのか知らないですが「許す心だけが幸せになれる」
直らないのにその人と一緒にいたら、また傷つくのは自分ですからね?
「許す心が大切なのは、相手がちゃんと反省して謝ってきた時だけです」
しかも、自己犠牲って自分を大切にしてない証拠です。
だから裏切られたら精一杯泣いて怒って、訴えたらいいと思います。
それで直らなかったら、そんな相手は見切りをつけるべきです。
「自分を大切に出来ない人は、周りの人も大切に出来ない。
そして自分を大切に出来ないから、大切にもされない。
自分すら大切に出来ない人は、大切にするということがどういうことか理解が出来ないから。
それは幸せではない。
自分を大切にして、大切にしてくれる人と居て、相手を大切にできることが幸せだ。
私が幼少期の反動で非行に走った時に、多くの人がかけてくれた言葉です」
本当の優しさとは、甘やかすことじゃないのです。
大切にされなかったら怒っていい。
相手が精一杯頑張ったのに出来なかったときや、わからなくて傷付けてしまった時は許すことが愛なのではないでしょうか。
何度も同じことで傷付けられて許すのは、相手に媚びているだけで優しさでもなんでもなくなってしまいます。
ここからは、許してしまう人にありがちな「流されやすさ」の治し方を考えていきましょう。
自分に決断力や判断力をつければ、都合のいい人からさようならです!
人はなぜ迷い流されたり判断を誤るのか
人生は選択の連続。
それは他者との共存なくしては生きてはいけないからでもあり、どんな道でも判断せずには生きていけないからですよね。
なぜ人は判断に迷い誤った選択をするのでしょうか?
・未来の予想をせず今現在楽な方を選択する。
・多くの人の意見に流され正しい判断を見失う。
・その経験をすることで、なにを学ぶことができるのかという仮説を立てていない。
・選ばないという選択をする
以上が人が判断に迷い誤った選択をする理由なのですが、具体的に1つずつ考えていきましょう。
【未来の予想をせず今現在楽な方を選択する】
人間というのは生まれ持って「楽をして何かを得たい」という、脳の構造を持っています。
「楽してダイエット」や「1ヶ月で運命の人に出会える方法」などが年中流行っているのはこのためです。
しかし、楽して何かを得ることが本当にできるのでしょうか?
人間は、なにかを得るためには必ず「学ぶ」ということが必要になります。
学ぶということは具体的には、トライアンドエラーを繰り返し「なにがいけなかったのか」「今後成功するためにはどうしたらいいか」を考え、さらに何度もトライアンドエラーを繰り返すことです。
楽をするということは経験も失敗も体験していないのですから、それは「成功した」のではなく「成功したように思えた」という偽りにすぎません。
【多くの人の意見に流され正しい判断を見失う】
日本人は、人の顔色をうかがうことが得意で、流されやすい国民性があります。
海外で行われた、ある実験があるのでご紹介しますね。
これは同調行動の実験なのですが、基準棒と同じ長さのものを3本の中から選んでもらうという実験でした。
普通にこの問題を出せば、ほぼ全員がAと答えたのに対し、実験参加者以外にサクラの参加者を7人用意し、サクラ全員にBの間違った回答を答えてもらうよう指示しました。
その後、参加者に答えを言ってもらったところ、32パーセントの人がBと答えたのです。
この32パーセントの人たちは、他の人の意見を気にして自分の意見を見失ってしまったのですね。
家族間の肥満の割合でも、親が肥満である場合子供も同様に肥満になる確率が40パーセントも上がります。
この原理は、家族によく食べる肥満の人がいることでその人の行動を見ているうちに「食欲を制御する」ことから「好きなだけ食べる」という発想に流されてしまった結果です。
自分の意思で決定をしないということは、人のせいにできるのと同時に、人のせいなので学ぶことを選びません。
学ばないということは、また同じ過ちを繰り返すことになります。
人に決定を委ねるということは他者の人生を歩んでいるのであり、自分の人生を歩んでいるのではありません。
人生とは、自分の意思で決定をし責任をとることこそ生きている証というものではないでしょうか?
「自己決定し、経験して失敗することはいけないこと」ではなく、
「自己決定し、経験して失敗をした後、学ばないことが一番不健全」と、私は思います。
【その経験をすることで、何を学ぶことができるのかという仮説を立てていない】
何を選ぶにせよ、これから自分にとって新しい経験となることには何ら変わりはありません。
選択した後に、考えられる展開としては
・失敗する
・成功する
のどちらかになりますが、例えばあなたがテストを受けることになったとします。
AとBの2択でしたがあなたはAを選んだ。この場合Aが正解だとするとあなたは「成功」を学ぶことになります。
「また同じ問題が出てもAを選択すれば良いのだ」ということを学ぶことになりますよね。
一方で、Bを選び不正解だった場合あなたは「失敗」を学ぶことになります。
「次は失敗しないようにもっと勉強しなければならない」ということを学ぶことができますよね。
「その経験により自分が何を学ぶことができるのか?」という仮説がないことで、未来の予測ができず、それが良い判断なのか悪い判断なのかもわからないので判断に迷うのですね。
【選ばないという選択をする】
そのほかに、コンプレックスを言い訳にして「選ばない」という選択肢をとる人もいます。
選ばないということは、選んだ後の失敗からくる責任から逃げることができるからなのです。
選ばないということは、いつまでも同じことで悩み続けていくということになります。
失敗は、過ちではありません。
「選択する」という自己決定力に意味があるのではないでしょうか?
そして、決定するということは迷いが生じるということでもあります。
その迷いが生じた時に、どう決断したらいいか考えていきましょう。
判断に迷った時に考えるべきこと
自己決定をする時に、考えるべき大切なことをいくつかご説明します。
・その決断により何を学べるのかを考える。
・より大きなコミュニティの利益を優先する。
これらが自己決定をする時に考えるべき大切なことなのですが、具体的に1つずつ説明していきますね。
【その決断により何を学べるのかを考える】
例えば、子どもが転びそうになっていたとします。
選べる選択は2択。
1、手を差し伸べて、転倒を阻止する。
2、手を差し伸べず、転ぶのを見届ける。
ここでの転ぶという意味は、命に関わるような転倒ではありません。
1を選択した場合、子どもは転び方を学ばない代わりに、学ばなくても誰かが助けてくれることを学びます。
そして手を差し伸べた大人は、ひとときの安心を手に入れますが、子どもは転び方を学ばないので一生手を差し伸べることになります。
2を選択した場合、子どもは痛みを経験しますが、次はどうしたら転ばないで済むかを自分で考え学ぼうとします。
手を差し伸べなかった大人は見守ることの辛さを経験するけど、手を差し伸べないことでの子どもが転び方を学んで自立していけるということを学びます。
あなたは、どちらを選択しますか?
こうして、誰が何を学ぶのかを考えることで、より良い選択肢を選べるのではないでしょうか?
その選択肢が間違っていたとしても、「何がいけなかったのか」「次はどうしたらいいのか」を考え、また同じ選択肢が訪れた時に、より良い選択をすればいいのだと思います。
【より大きなコミュニティの利益を優先する】
例えば今日、あなたはハンバーグが食べたい。
一人であればハンバーグを迷わず食べるはずです。
しかし、家族と一緒であればどうですか?
自分一人の利益のためにハンバーグを選んだとする。
しかし、家族はみんなカレーが食べたかった。
一人だけ満足して幸せでしょうか?
それならば、家族みんなの望むカレーを仲良く食べる方が笑顔で過ごせませんか?
もしくは家族で話し合い、みんなが食べたいものにする。
いつも自分だけ我慢しろと?
そうではありません。
個人それぞれが、自分より大きなコミュニティを優先して生きていけば、その姿を見て学び、家族ものちに譲り合うことを覚えるということです。
誰かが調和を測るために、愛を先に与えなければなりません。
愛を与えるというのは、自分の利益より相手の利益を優先することなのです。
相手の利益を優先するには「思いやり」が必要。
思いやりを育むためには、相手をよく観察し理解しなければできません。
具体的にどこを観察するのかというと「相手の好きなことと嫌いなこと」を最低限観察することが必要です。
相手を理解して、初めて相手の望むものが何かを知り愛を与えることができます。
それは何より、自分への最高の幸せに繋がることを経験できます。
自分だけの利益を優先して生きていては、いずれは孤独な人生となる可能性は高いのです。
なぜ孤独が待っているのかというと
あなたは自分のことばかり考え、人には興味もなく自分勝手な人と人生を送りたいと思いますか?
そうしていると人は離れていきますよね?
でもね、自分より大きなコミュニティを常に優先し選択していけば、共に歩んでいけるコミュニティを作っていくことが可能です。
なぜなら「類は友を呼ぶ」という言葉の通り。愛を持っていれば、愛を持った人が集まってくるものなのです。
人は、一人ぼっちで幸せになることは不可能です。
一人でする食事は美味しくないですよね?
一人でお金だけがあっても幸せではないですよね?
人は、そこに他者という人格が存在するから幸せを感じられます。
ではコミュニティの中で、自分勝手に生きていても幸せにはなれません。
他者への献上でしか人は本当の幸せを得ることはできないのです。
こうしたプロセスで自分も相手も大切にできて、より良い人間関係をみなさんが構築できることをココロから願います。