恋愛=本物の愛ではない 結婚=愛がないと続かない

目次

いろんな説はあるけれど

本日のお悩みはこちらです!

マンボウくん
マンボウくん
「恋愛と結婚は何が違うのですか?恋愛できなかったら、結婚はできないのでしょうか?」

私が提唱する恋愛とは、恋とは下心と書いて恋。

下心に愛がくっついて「恋愛」

恋愛はいつか卒業を迎えます。

恋愛で経験を積み、本当の「愛」を知る。

動画版はこちら↓

恋愛中というのは、どうしたら相手に振り向いてもらえるかだとか、気を引くための手段とか、そんなことにばかり気を取られて相手の幸せは二の次になっていた事が皆さん1度は経験があるのではないでしょうか。

これらは私欲による下心であって、見返りを必要としない「愛」とは違います。

その下心を積んで「これは本当に相手を大切にはしていなかった。大切なのは偽りのない普段の自分で勝負することであり、相手を思いやり自分をも犠牲にできるかどうかである」と気がついていくのです。

必要なステップなのですが、愛とは何でしょうか?

私は、「絶対的に安心できるもう一人の自分」だと思います。

具体的には、恋愛では自分がおとなしいタイプの人が、危険そうな人物を選んだとします。

これは、ないものねだりの恋愛。

でも、結婚を考えた時に、自分にないものばかりの人は疲れてきてしまいます。

刺激はいらない状態ですね。

それよりも一生を添い遂げる人には、誠実で愛のある人がいい。

どこの国だって、男女問わず皆さんこの条件は、必ず入っています。

しかし「誠実で愛のある人」と一緒にいるためには、自分自身が誠実で愛がある人でなくてはならない

結婚とは、最終の愛の課題です。

恋愛中に多少のことに目をつむってなかったことにできていたことも、結婚生活になるとなかったことにはできません。

なかった事にして、すれ違って別れていく夫婦が、実は1番多いと私は思います。

現実的な問題を、お互いを思い合って誠実に向き合って逃げずに話し合い解決していく。

そこに「折れなきゃ」とか「とりあえず、ここはこう言っておけばいいか」という、サボりは愛を破壊します。

そして、なぜ恋愛のままでは結婚がうまくいかないのでしょうか?

「愛」とは自分にとって大切な人が、大切に思う人のことも心から愛せてこそ「愛」と呼べるからなのです。

これは、難しいと感じる人がとても多いのですが、共同体感覚というのを養うことで全て解決するので、後で説明していきますね。

パートナーの家族がどんな人であっても、パートナーが家族を愛しているのなら前向きにお互い歩んでいかなくてはいけませんよね。

子どもができたら、家族としての生活になり私利私欲の自分勝手な行動もできない。

「愛」とは、異性にだけではないですよね?

愛とは、相手を自分のこと以上に、相手を思いやり、大切に出来るかどうか

普段から、人へ貢献できる優しさを持っていなければできません。

自分自身も大切にして、生きていかなければいけない。

いつも、人の気持ちを傷つけないように、相手の心を考えていなくてはできない。

相手の幸せが自分の幸せだと思えなければ、愛とは呼べません。

恋愛と結婚するために必要な愛では、レベルがぜんぜん違いますよね。

恋愛では許されていたことも「愛」の前では許されません。

それほど愛は繊細で、取扱が難しいのです。

けれど、誠実に思いやりを持って生き続けて「愛」を当たり前に持てるようになると、愛ほど強く壊れないものはないと思います。

一生、優しくそばに居てくれる唯一人を傷つけずに戦える武器とも呼べます。

どんなに鋭い剣(嫉妬や嫌がらせ)にも貫くことはできず、どんなに壊せないと呼ばれている壁(失ったココロが眠る部屋の入り口や過去の悲しみによって作られた壁)も破壊できるのです。

戦争は今も続く、とても悲しいわかり易い悲しみのぶつけ合いですよね。

日本は、唯一戦争をしない国。

それは、弱く降伏しているわけではなく、戦争という名の怒りや悲しみを終わらせるには「人を傷つけない愛と、許す勇気」でしか終わらせることができないと、繊細な日本人は知っているのだと思います。

憎しみは、憎しみでの仕返しでは、終わりを知らない。

悲しみも、悲しみの仕返しでは、終わりを知らない。

しかし、許すという愛だけは自分の気持ちに整理をつけて怒りや悲しみを終わらせることができる。

愛は万能ですね。

治らない病にかかっても、強く優しく生きている娘から、常に教えてもらっていること。

ナミちゃん
ナミちゃん
「誠実に愛を持って生きていたら、いいことは起こる。人生は、そうできている」

私が、よく書く、この言葉は実はこんなエピソードからできていたのです。

愛を育むために必要なこと

人は、他者との関係の中でしか幸せになることはできません。

険しく傷つくこともあるけど、得られる幸福は何にも代え難いものです。

忘れてはいけないのは、愛は与えてもらうものではなく与えるということ。

それができない人間は、愛されることは残念だけど「ない」

「こんなに愛したのに、何も返ってこなかった」

と嘆くのは、自分のものだけの愛を、相手にあげたという認識だから「なくなった」「奪われた」になるのです。

そうするとすごく辛い。

愛を与えるという意味を、間違えているからそうなってしまうのです。

【共同体感覚】

どういうことかと言うと、大切な人や自分の時間も気持ちをお金も、みんなのものだと考えます。

それを、共同体感覚と呼びます。

その共同体感覚の中で、愛情も時間も、移動しているだけだと考えれば、損もしていないし、自分のことと同じように人を大切に出来ます。

全てのものを、みんなのものだと思えば、相手が痛かったら自分も痛いですよね。

相手が嬉しかったら、自分も嬉しい。

自分も相手も大切にする。これで「俺ばっか」「私ばっか」からも、開放される。

自分の時間を相手に使うことも、私たちの時間になるのだから時間を取られたことにはなりません。

それが平和や愛情を産む唯一の秘訣。

愛したから愛される。

のではありません。

こちらから相手を愛したことにより、相手が「愛とは何かを知り、愛し方を学び、愛することができる」ということなのです。

しかし、その愛が自分に向けられるとも限りません。

なぜなら愛を知った上で、その愛を誰に向けるかは、相手にしか決められないことだからです。

過去に、こんなことがありました。

私は、お付き合いすると精一杯尽くす方だと思うのですが、自分が未熟だったのもあり、どんなに愛を持って接しても返ってくることはなく、むしろ裏切られたり傷つけられたりもしたのです。

ナミちゃん
ナミちゃん
「どうしてなの・・・」

と悲しみ、2度と愛さない!と考えた時期もあったのですが、根底には「私がしたくてそうしていた」という事実があったことを思い出し、その後どんなに傷ついても諦めませんでした。

愛したから愛されたい。

という見返りは求めないで相手が愛を少しでも知り、私にではなく他の誰かにでも愛を与えられる人になってくれたことが嬉しいと考えるようになったのです。

見返りを求めるということは、とても危険です。

「こんなに頑張ったのに、愛してくれなかった!」という感情を生み出すからなのですね。

その感情こそが、自分自身を傷つける。

人に愛を与えるということは、見返りをもらうためではありません。

人は、自分の欲求を満たすために存在しているわけではないですから。

誰だって

「君は、誰かの欲求を満たすために存在している」
マンボウくん
マンボウくん

と言われたら嫌ですよね。

では何のために愛することが必要なのか。

それは

与えられるよりも、与えた方がはるかに自分が幸せであるということ。

なぜ与えた方が幸せなのでしょう?

私は洋服が大好きですが、自分に買うよりも娘や大切な人に何かプレゼントして喜んでくれている笑顔を見ている方が幸せだと知りました。

先程の、共同体感覚でいうと「自分にプレゼントしたのも同じ」ということは、自分にプレゼントすれば、自分だけ嬉しいけど、大切な人にプレゼントすれば、2倍嬉しい。

一見「物をあげればいいのか」

そうとらえた方もいるかもしれませんが、そうではありません。

食事にしても同じです。

誰かが心を込めて作ってくれた食事は、とても美味しいものですよね。

それを食べている自分よりも、自らが作って大切な人に美味しいと食べてもらう方が、お腹よりも胸いっぱいというものだし、それもまた何倍にもなります。

会話でも同じです。

俺が!私が!と自分の主張ばかりする夫婦。それが自分とパートナーの関係だとします。

自分の想いばかりを受け止めて欲しいのは、愛を一方的に与えてもらおうとしている何よりの証拠。

こんな夫婦が、うまくやっていけるでしょうか?

自分の気持ちもろくに聞いてくれない人の気持ちを、相手は聞こうと思うでしょうか?

それは相手も同じなのです。

この負のスパイラルを回避するには、どちらかが勇気を出して愛を持ち、先に受け止めてあげることが必要になってくる。

相手の気持を聞くのは、自分の声を聞くのと同じだと考えます。

受け止めてもらった相手は満たされているわけですから、あなたの心のうちもいずれ聞いてくれることにつながるかもしれません。

「かもしれない」とは曖昧だな。

と思った人に、これは曖昧とは違うのです。

先ほどもお話しましたが、自分が何かしたからといって相手も同じことを返してくれるかは保証はできないということなのです。

あくまで、その後どうするかは、相手が決めることですから。

まとめると、今の現状を変える唯一の方法は

相手の望むことや不安を理解し、自分には何ができるかを学んで実行する方が幸せな未来がある。

ということ。

ここで注意しておきたいのは、自分の意に沿わないことはしてはいけないということです。

なぜかと言うと、いずれ相手のせいにする言い訳となり、思いやりではなく押し付けに変わってしまうからなのです。

我慢をして相手の望むことをし続けるということは、人の人生を生きていることになんら変わりがありません。

そして愛を与えたことのない人間に、愛とは何かを理解することはできません。

与えてもらってばかりの人が、愛を与える手段や与えることで得られる本当の幸福を知っているわけがないのですから。

共同体感覚が低いと、友情も恋愛もうまくはいきません。

ここからは、自分への愛情と承認欲求について考えていきましょう。

愛は自分にもちゃんと与えられるし、承認欲求もなくなる

愛を自分に与えることで、承認欲求も無くすことができるのではないでしょうか。

では承認欲求について、お話したのですが自分への愛とは何か。

例えば、こんなことがありました。

ある女性が

「いくらダイエットして痩せても、彼氏ができないからやめる」

と言ったのです。

そこには

「痩せたら彼氏ができる。自分を認めてもらえる」

という承認欲求があります。

私はジム通いを10年近く続けているけど、続けられる秘訣といえば

ナミちゃん
ナミちゃん
「自分を満たせるから」

私たちの違いは何でしょうか?

その女性は「彼氏を作る」という理由ですが

私は「自分の体型の維持で、自分のテンションが上がる」という理由です。

目的が違うということなのです。

他者からの見返り目的と、自分のための目的では明らかに継続力に差が出ます。

他者からの承認目的には「承認がなかったらやめてしまう」といった点があります。

私は体を鍛えることで体型を維持し、続けていられる自分を常に褒める。

「今日は調子が悪くて少ししか走れなかったな・・・」

でも調子が悪いのに走りに行った私の勇気。

ナミちゃん
ナミちゃん
「最高!

よく頑張った私!」

昔は違いました。完璧を求めるあまり、常に反省の日々。

私は自分にスパルタになることが、正義であるかのように日々を送っていたのです。

大切な自分を、自分で傷つけてたのですね。

自分を大切にするということは、怠けて甘やかすのとは訳が違うのです。

自分に厳しくなると、人にもそれを求めできない人間に苛立つ。

全然幸せではないし、自分勝手だったと気が付いたのです。

自分ができることを、人ができないから怒るなんてとんでもない理不尽です。

自分が今日、何ができたかを自分で褒めて伸ばすことも愛です。

人に認めてもらうという愛では、その人がマイナスの評価をすれば、自分の価値が落ちたと錯覚します。

繰り返しになりますが「人からの評価は錯覚」自分の価値は、自分で決めるのだから。

例えば、あなたが服屋さんに行ったとします。

ある服を買おうとしたら、値札がない。

ラッコくん
ラッコくん
「この洋服は、いくらですか?」

すると、店員さんは、自信なさげに

「お客様が決めてください、、私には、価値がわかりません」
マンボウくん
マンボウくん

そんな服、買いたいと思いますか?

これが、他者からの評価で決められた自分。と同じ、ということなのです。

私は、すこぶる朝起きる事が苦手なのですが、少し早くおきられただけで、頑張ったと認めます。

小さなことでもできた自分を認めることで、大切な人が小さなことができた時に、一緒に喜び感謝することができる。

いいことしかない!

最高!

エクセレント!

そこで大切なのは、それで終わるのではなく、できた自分を褒めつつ「もっとできる方法を探す」ということです。

俯いている時に、より良い方法を探そうと思えるのはどん底時だけ。

それよりも、人間の心理というのは、上を向いて自信に溢れている時の方が向上できるというものです。

笑顔を絶やさないのは、大変なことですよね。

日々、学んでいる人ほど繊細で考慮深いから不安も出てきます。

その中でも笑顔に気をつけて、相手に与えることを恐れずに習慣にしていけば、いつか必ず自分を心から愛してくれる人が現れる。

ここでもう一度、得ることと与えることについてもっと深く考えてみましょう。

得ることで得られる幸福と、与えることで得られる幸福の違い

例えば物理的な物で言うと「自分へ高級車を買う」ことが得ることだとして

「貧困に悩む子ども達に、洋服を送る」ことは与えること。

精神的な例えで言うと「自分の気持ちを、一方的に受け止めてもらう」ことが、得ることだとしたら

人に何ができるか考え「人の話を親身に聞き、気持ちを受け止める」ことが、与えること。

表面的には自分に買い与え、尽くしてもらうことを幸せと思いますか?

【与えられることで幸福と思い生きている人の中身】

・与えてもらうことでの幸せには制限がないので、いつも満たされず空虚である。

・与えることは損だと思っているので、自分が与えた見返りがないと不満に思う。

・してもらうことが当たり前となり、何もしてくれない人は敵にすら思えてくる。

・与えられていることに感謝できないので、与えてもらった物や気持ちに文句をつけるようになる。

・与えられることばかりを望むので、自分から他者に与えようとしない。(何も与えていない)

・利益不利益で人を判断しているので、関わる人によって態度が違う。(不平等に接する)

・精神的に未熟なので、思い通りにいかなくなったらすぐにその人の悪口をいう。

【与えることが幸福と思って生きている人の中身】

・与えることこそが自分の幸せなので、小さなことでも大きなことでも、与えたという事実があれば満たされる。

・相手に見返りを求めていないので、相手の喜びが、さらなる自分の幸せと思える。

・与えることの大変さを知っているので、与えてくれた人に、心からの感謝ができる。

・与えてもらうことは、当たり前ではないと理解しているので、与えられたものを大切にできる。

・皆に平等である。

・人の悪口を言わない。

どちらが本当に幸せだと思いましたか?

過去に、人は他者との関係なくして幸せを得ることはできない。

と、お話ししましたが、それは何かしてもらうために他者がいると言う意味ではありません。

逆の立場になって考えればわかりやすいと思うのですが、自分だって誰かに

「何かしてもらいたくて一緒にいる。何かしてくれないと僕にとって君の価値はないし、僕は君に何か与える気はない!」
マンボウくん
マンボウくん

って言われたら、その人から離れたいと思いませんか?

ここまではっきり言う人はいないですが、多くの人がこう言っているようなものだと私は感じています。

与えられている人か与えている人かの見分け方

では、どうしたら見分けられるでしょうか?

【与える側の人】

・自分の大切な人が誰かを連れてきたときに、本当に誠実で安全な人かを見抜く方法としてある一点のことしか見ていない。連れてきた人が自分の大切な人を大切に思っているか。

・常に人に何ができるかを考えているので、人のことを悪く言わず誠実である。

・皆に平等。

【与えられることが当然の人】

・人を判断するときに「自分の大切な人を、大切にしているか」ではなく「その人が自分に何をしてくれるのか」で判断する。

・自分に何かをしてくれたらいい人。自分に何もしてくれなかったら悪い人。

・常に誰かの悪口を言っている。

・関わる人によって、態度がコロコロ変わる。

どうですか?

与える側というのは、損している気になりますか?

与えられて生きていくと、最後は孤独が待っています。

与えられて生きていくという人生に、心が満たされる日は来ないのです。

与えて生きていると、自分でも気がつかないうちに自分のことをよく見ている人がいて、数は少なかったとしても永遠の友となります。

人は意外とちゃんと見ているものなのです。

日頃の行いや、生きていく上での考えは全ていろいろな形として現れます。

自分が人に投げたブーメラン(言葉や感情)は必ず自分に返ってくる。

ナミちゃん
ナミちゃん
傷つくことの方が多いのが人生だけど、誠実に愛を持って生きていたらいいことは起こる。人生はそうできているから大丈夫。

これが愛の中身の説明でした。