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小さな汚れは次第に全てを侵食する
大切なものを手に入れるため、または維持するためには切り捨てなくてはならないものがあります。
悪いものはすぐに目の前から消すことや、汚れたものに触れさせないということは単純そうに見えるができなくて悩んでいる人が多くいらっしゃいます。
しかし、そうしなければたちまち私たちの心は侵食されてしまいます。
ある例で、お話しますね。
世界中で見かける壁への落書きやペイント。
書いた人たちにインタビューすると「アートだ」と返ってきます。
この辺りは賛否両論ですが、視点を変えてもそう言えるのかは疑問が残ります。
これからお話しする例はブロークンウィンドウズ現象(割れ窓現象)というものなのですが
1つの怠慢を放置すると、大きな悪に繋がるという現象のことを指します。
このペイントを放置しておくとどういった現象が起こるかというと、落書きが集中している地区では強盗や放火、レイプといった落書きには関係ない事件が多発するようになるのです。
他にも、窓の割られた車を1台街に放置しておくだけで犯罪が急激に増えたという事実もあります。
サンフランシスコでは民家にヒッピーが住みつき、それを周囲が放置していると美しかった街が数ヶ月で荒れ果てたそうです。
これも、1枚の割れたガラスと同様の現象と言えますよね。
ここで、ある疑問が浮かび上がります。
止められない負の連鎖
ここで疑問が出るのは「なぜ自分の街が汚されていくことを黙認し措置を取らないのか」
通常ならば「カタルシス」という集団社会における浄化作用が働き、数の多い「善の行動」が増えるはずと考えるのが一般的です。
しかし、ブロークンウィンドウズ現象は「漠然とした不安」と「社会的手抜き」が作用しているものと考えられます。
ここで出てきた「社会的手抜き」とは、1人の人が道端で倒れたと仮定した時に周りにいた人間が多いほど「誰かが助けるだろう」と誰も助けないでいることを指します。
周りの人数が少なければ少ないほど倒れた人を救う確率が上がるという理論です。
話を戻すと、割れたガラスの車をずっと放置されているのを見た住人が「この街では、危険なことが起きても誰も助けてくれない」という不安が生まれ、些細なことでも神経質になっていき暴力的になっていくという考えです。
つまり、割れたガラスや、落書きそのものが新たな悪を呼ぶのではなく、それによって現れた不安が大きくなっていき人を凶暴へと変えていったのだと考察できますよね。
それを私は「習慣化した怠慢」が長期間続き、モラルの低下へと導いたと考えます。
では、この現象の阻止には何が有効なのでしょうか?
ブロークンウィンドウズ現象撲滅の手段
1994年にニューヨークの市長は「割れ窓」の一掃政策を打ち出しました。
それにより年間の最大認知犯罪件数は、殺人が67,5%、強盗が54,2%、婦女暴行が27,4%も減少したのです。
これを日本でも取り入れたことで、日本の犯罪件数も減りました。
これを受けて警視庁が発表した刑事白書では「『秩序違反行為』の規制が、犯罪の増勢に歯止めを掛けることも重要な政策の一つであることが認められる」と発表しました。
私たちの私生活に何が関係あるのかというと、人間関係も勿論ブロークンウィンドウズ現象を引き起こすと私は考えたのです。
ミイラ取りがミイラになんてことわざがあるように、興味本位で汚れたものに近づき観察し続けているとその行為が間違っているものなのか正しいものだったのかわからなくなるということです。
それは蓄積された「小さな不安」と「長時間関わってしまった怠慢」により綺麗なはずの自分を見失ったことにより起こる現象。
私は昔「あなたは誰にでも優しい。しかしその優しさであなた自身がおかしくなってしまうのではないかと不安だ」と言われたことがあります。
その言葉は親友に言われたこともあり、多くを考えさせられました。
不倫ばかりしている集団に自分の身を置き「私はそうはならない」と思っていたとします。
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その集団から派生して現れる悪にも気がつかずに「こんなところもあるけど、いいところもある」という共依存の関係に陥りやすくなります。
その放置された怠慢が、もっと凶悪な行動へと変化を遂げていくことは、必然的と捉えるべきではないでしょうか。
私は、凶悪を生み出す原因は小さな「心理的ネグレクト」つまり「正しくないものへの放置」が凶悪へと繋がると考えました。
漠然とした不安やストレスは、人を窮地に追い込み歪ませ攻撃的にさせます。
環境の整備は勿論のこと、それについては物理的に改善の余地がありますよね。
例えば「治安の悪い区域には住まない」「部屋は綺麗にする」「近所が汚れていたら自ら掃除することや住んでいる地区へ届け出る」などがありますが
気がつきにくい人間関係の汚れについては「悪いものは目の前からすぐに消す」ことや「汚れたものを目に入れさせない」こと、つまり「汚れのない美しいものだけを見るように心がける」に尽きると思うのです。
単純そうですが、優しい心が邪魔をしたり生まれつきの環境から難しい場合もありますよね。
その場合は自分でルールを決めていき、それに値しない人間とは問答無用に離れること。
そして綺麗な人間とだけ触れ合っていくと「汚れたもの」や「まがい物」がすぐにわかるようになります。
その理由として、美しい人間の考えが自分にも定着しているため「おかしい」ということに気がつけるのです。
初めのうちは「軽い違和感」から始まるかもしれません。
この「正しい眼」を発動させるためには、定着させる間「汚れた人間」から自分を徹底的に遠ざける必要があります。
仕事柄無理なのであれば、「プライベートだけでもそうする」というルールを決める。
まだ自分には見抜く力がないと理解している場合は、心から信じられる人に客観的意見を求めることも大切です。
信頼している人の思考に任せ、自己決定していないのとは違います。
あなたを愛している人は「あなたを大切にできる人なのか」を基準として相手を判断するため小さなほころびも見逃さない。
それが大切なのです。
そこから自分なりの考察をし自己決定することは、当たり前の人間同士の助け合いだと思います。
1つの割れ窓に値する人間といることで、今まで築き上げてきた人間関係を全て失うことにもなりかねません。
そんな人たちといるという事実を知ったあなたの周りの人は、何も言わずに離れていってしまうことにもつながっていく。
人間は結局自分と同じ価値観の人間としか過ごせません。
それを無意識に理解している人は多いので「あの人はいい人だと思ってたけど、ああいう人たちと付き合っているのならそれが本性なのだろうから付き合うのはやめとこう」
という心理につながるのです。
自分が思っている主観より、人を見るときの客観的な目線や心理はシンプルでドライなもの。
そうならないためにも「正しく生きるための正しい眼」を養うことは、自分だけではなく、自分の大切な人も守る手段となりますよね。
- 「悪いものは目の前からすぐに消す」
- 「汚れたものを目に入れさせない」
- 「汚れのない美しいものだけを見るように心がける」
まだ自分には見抜く力がないと理解している場合は、心から信じられる人に客観的意見を求める。